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百年蔵の再生日記  
高木正三郎氏(一級建築士・建築工房 代表) 

設計+制作/建築工房

博多百年蔵の再生〜2011年11月09日(水)

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明日もまた、雨。百年蔵の一階の全ての構造〜機能は生きているから、とにかく、一刻も早く、雨をしのぐ屋根を葺かねばならない状況にある。西倉上の小屋組解体〜整理が終わり、大工工事により、屋根下地組み=小屋組の回復工事が進む。元は当然ながら、瓦葺きの屋根であったが、今回は金属折板屋根となる。屋根葺き工事の省力化でもあり、その下地の大工工事の省力化でもあり、つまり工期最優先の苦肉の選択肢である。
とはいえ、大工の仕事としては、墨付け+手刻みによる、現場仕事。工場にて機械が木構造の部品のほとんどを加工し終えてしまう現代の木造技術であるプレカット全盛の中で、もはやなかなかお目見えしない、本来の大工の現場となってしまった。プレカットという技術は基本、新築指向である。この現場のように、高さ寸法の不揃いな既存の構造の上に、水平な部材を架構するには、人間が現場で部材を作るしかないのである。ほんの20年ぐらい前までは、墨付けから手刻みという大工の技術は、大工として当たり前であったが、近頃はそれができない大工が多いとのこと。プレカット工場にて、皆プラモデルのように部品として出来上がった部材があれば、それを組み立てることは出来る。しかし、「木材」から、自らの手で「部材」を作ることが、できなくなった。
かつて、この博多には、数多の大工職人が居住していたらしいが、今は、本来の大工=墨付け〜刻み(接合部の加工)のできる大工、となると、多くは市外へ探し回ることになるという。個人が蓄えていた技能は、資本が蓄える技術によって代行されるようになった、結末である。

博多百年蔵の再生〜2011年11月15日(火)

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昨日から、売り場上の屋根小屋組の架構が始まる。もともと明治時代に輸入された西洋式の小屋組(洋小屋トラス)の架構がなされていたが、すべて撤去され、すべて新しい材による屋根の小屋組となる。普通小屋組というと天井裏の構造であるが、この地面は2階の床であり、この直上に柱梁の水平垂直材、そして筋交い材が縦横無尽に走る。屋根裏のようには見えない屋根裏、の不思議な空間が出現する予定。
しばらくは秋晴れが続くので、この間に屋根をとにもかくにも可能な限り早く葺き上げる。11月中にはすべての屋根が仕上がる予定。屋根が仕上がった後の12月の半ばから下旬は、あらゆる職種が一斉に蔵内に押し寄せる。クリスマスのあたりが復興工事の大きな山場となりそうだ。

百年蔵の再生〜2011年11月16日(水)

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昨日、柱が立ったと思っていたら、今日は、すでに桁~母屋が組まれて、筋交いまでが加工を始めていた。住宅一軒ならば、不思議ではないスピードだが、300平米を超える規模で、このピッチは速い。この心地よい天気が奏功しているのだろうか。監理者としては、しかし、この工事にまったをかける。筋交いの考え方が〜長期荷重と短期荷重の分別が〜大工に正しく伝わっていなかった。工事の規模的には、今日のこの部分だけではない。当に今列柱が建て方されている300平米のおよそ3倍以上の場所で工事が繰り広げられている。全体の統括は一つの工務店だが、それぞれの工区は、それぞれの職人の「組」が担当している。統括、監理する者にとっては、あっというまに現物が出来てしまっているということになりかねない。車でいえば、脇見をする余裕のないスピードを走っている。
話は一点、屋根の上に登ると、お隣の福岡高校が背景になっている。1929(昭和4年)の建物との風景の重なりが、なにか偶然ではないものを想起させる。双璧と言われる西の修猷館高校が、歴史を積み重ねてきた校舎を一掃して久しいが、こちら東はその歴史の風景が引き継がれ、活きている。それらの中で育つ高校生達は、たとえ無意識ではあっても、ある一定の時間を過ごした場所を心象風景として刻んでいるだろう。そのあたりにおいては、おそらく、西と東とで異なるものを育んでいるのかもしれない。東の百年蔵はまた、歴史を蓄えつつ、将来に向かって活きようとしている。こちらの舎は、二十歳以上の大人のための心象風景に寄与していることになるだろうか。福岡市にとっては、重要な文化教育施設エリア、である。

博多百年蔵の再生〜2011年11月18日(金)

今朝は、悲しい雨が降っている。屋根の架構が軌道にのって、床上に載った矢先、に足止めを食らう。建築現場における雨は、もちろん想定外ではないものの、やはり降られては困るという時はある。今から、大学の授業のために上京し、4日間、現場を不在。工事着手以来の日勤が、とぎれる。屋根工事もまた小休止。

多百年蔵の再生〜2011年11月22日(火)

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中庭の風景が、一変しようとしている。といっても、全く異なる要素を挿入しようというのではなく、言ってみれば、瓦の葺き替えである。つまり、同じ要素の単なる新調、想像力も造形力もへったくりもない、素材の取り替え。それでも、風景は激変する。100年強前の瓦の風景は、黒びたいぶし瓦といい、波打つ形状といい、たしかに時間の経過を感じさせる何かがあり、それが、一掃されることに、なにがしかの寂しさがないわけでもない。しかし、ゲリラ豪雨で雨漏りするよりはいいし、よくよく見るとプラスチックの縦樋が、無造作に横たわっているよりはいいし、後世に差し込まれた瓦や、板金の繕いの不安にさいなまれることもなくなる。のし瓦をくるまう漆喰のなまこ造形が、新しくなるのも、楽しみであるし、なによりも、クタクタに波打っていた屋根面がきちんと一枚の板の精度を得て、もう一度人工物の気品を回復しようとしていることも自然である。ものは必ず壊れ、そして社会とのつながりが保たれていれば、必ず新しくなってまた社会の日の目を見る。

博多百年蔵の再生〜2011年11月24日(木)

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日本人が偏愛してきた風景、棲息地は、周囲を山で囲まれた盆地=凹型の景観であり、出来ればすぐ側の背後に山、手前に河が流れているというような、山の辺、水の辺の風景であったという。果てしない平地に棲息地を求めたのは近世以降のことであり、それまで私たちの住処は、山と河の側から離れることはなかった。築山+池の構成であったり、枯山水などといった日本の庭の原型は、この山と河の風景から離れて住むことになった代わりに代償景観として成立したのではないかという説は、なるほど説得力を持つ。(日本の景観/樋口忠彦1993)
そういえば、百年蔵の中庭の風景は、日本人が愛してきた山と河のミニチュア、つまり代償風景を見事に備えていることに気がついた。山はもちろん瓦の屋根、河は小さく、井水の手水鉢である。三角形の中庭の真ん中に立つと、4周山々の風景が拡がる。
今回、最も背景を成していた山が無くなったことになる。自然の山であったならば、そう簡単に無くなることはないが、建築という人工物である以上、一日にして消え失せることを不自然とはいえまい。殊、今の私たち日本人にとっては、である。とはいえ、今回の復興工事では、この山と河に囲まれた中庭の風景は大事にすべく、可能な限り、元の風景の原則を崩さないよう考えている。今日、おおむね、二段目の屋根の立ち上がり部分が棟として立ち上がり、かつての空間性が回復した。解体後しばらくその屋根=重要な背景を見失いかけていたが、その骨格、失いかけていたかつての凹型景観が復活の兆しを見せ始めている。