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百年蔵の再生日記  
高木正三郎氏(一級建築士・建築工房 代表) 

設計+制作/建築工房

博多百年蔵の再生〜2011年10月28日(金)

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百年蔵の瓦屋根はかねてより、葺き替えの必要が生じていた。重機を据えたこの機会に、将来やりにくいところから、屋根の葺き替えを行おうということになり、おおかた火の手を免れた主倉の側屋根から、古瓦が取り払われる。今日は朝から小雨、急勾配の屋根の上で、職人達が瓦を剥がし、土を下ろす。危険を感じる作業。
日本の伝統的な瓦は、粘土の上に瓦が据えられる、土葺き構法である。なぜこんなに重い思いをしながら、屋根に土を載せる構法であったかというと、ブヨブヨの粘土の上の瓦は、土が固まるまでの間に座りの微調整ができることから、美観的に美しく葺き上げることができるというもの。それに対して桟瓦葺きは、銅線や釘により固定することから、瓦の座りとしては行儀が悪く、仕上げの美しさは劣るとされる。しかしそれよりも凍害や雪害に強いという機能性から、能登地域周辺などを中心に寒冷地仕様として発展してきた。現代は、その機能性や、施工の簡便さから、ほとんどの地域がこの桟瓦葺きとなった。百年蔵の屋根は地域的にも、時代的にも、言うまでもなく土葺き。当初は美しい瓦屋根であったかもしれないが、星霜が積み重なり、行儀は悪くなり、また、構造的にも重量の負担が大きいものであった。
あの日から3週間、当日は、少なくともけが人一人出なかったのだから、これら再生工事においても事故が起こらないよう、密かに念じる。

博多百年蔵の再生〜2011年10月29日(土)

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厨房室内の解体が始まった。丁度3週間前のこの時間に、この部屋の天井裏から出火した。そもそも厨房は2008年の夏に竣工して以来、設計者とはいえ不衛生な輩が外部から気まぐれに進入することもままならず、今回初めて立ち入る。全ての厨房機器が一時避難してしまい、ガランドウの室内から壁天井が剥がされていく中、壁にぽつり剥がれ残っている張り紙に目が留まる。
生産現場の品質向上のための欠かせない「綱領」のようなものか。あたかも豪腕上司が朝礼で宣った話し言葉がそのまま文字化されているかのような文体は、文学的、詩文的な要素が全くなく、却って臨場感がある。「料理は愛情!」を連発する料理人がかつてお茶の間を賑わせたが、この厨房の標語は、料理の「り」の時も臭わせていない。そのかわり、熱意は「最高」でなければならない、と強く求めている。ここは、少数の客に対して専念出来るような厨房ではない。一時に100人分などという量をこなせばならない料理の類であろうから、ありったけの気持ちがなければ、一つ一つへゆき届かないのだ、という叱咤であろうか。はたと我が身の仕事を振り返る。「便所の神」ならぬ、「厨房の神」かと思いきや、実は万有の神が、料理人のみならず、職人への、建築設計者への、襟元を正すために掲示?啓示?としてふりかかってきた。身の引き締まる解体現場であった。

百年蔵の再生〜2011年10月31日(月)

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ほとんど無事であった百年蔵ホールがキレイに掃除をされて、来客を迎えられるようになった。こういう部分が少しずつ増えていき、やがて新しい百年蔵が立ち現れることをイメージする。基本的には、このホールの蘇生は、百年蔵の社員の方々の清掃等の作業の成果。その一方、我々工事関係者の仕事は、今はまだ、基本的に解体工事の途中である。一旦モノを減らす作業を終えてからでないと、新たな部分が加えられない。その間、雨が降り、風が吹く。今しばらくの辛抱というところに、来週から大工が二階の木造フレームを組み始めるという予定が聞こえてくる。

博多百年蔵の再生〜2011年11月03日(木/文化の日)

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百年蔵は、名実共に歴史的な建造物である。(語弊を恐れずに言えば、)ほっておけば残っていることの方が不思議な存在、何か特別な配慮がなければ残ることができない存在、つまり、日本古典建築の宿命を代表している。石造文化の歴史的建造物に動態保存(実社会の機能を果たしながらの保存)例が多いのは、考えようによっては不思議はないかもしれない。石造という可変性の乏しい強固な構造(=スケルトン)と逐次可変な内装(インフィル)という二本立てが、文字通り歴史を積み重ねていくシナリオである。それに対して日本の木造は、強固なスケルトン~柔軟なインフィルという綺麗な分担ではなく、構造体~仕上げにいたり全体が、様々な意味で柔軟な建物である。つまり、構造や内装とわず、くまなく手入れがなければ、生き延び続けることは難しい。日本の国宝建築を見渡しても、ほぼ例外なく大小の修復工事を比較的短いサイクルでくり返しながら、辛うじて持ちこたえている。そうした延命システムは故に、材料が交換されたり、場合によっては形状や構造体が加算されたりという、オリジナルからかけ離れていく方向を持っている。それでも元に近い姿形を留めようとすると、凍結保存=つまり、現実的な機能を負担させずに、例えば拝観物として公開し、その代わりオリジナルを留めることを最大の目的とし、概ね税金を資金源とした修復シナリオとなる。比喩的に言えば博物館という傘の下に収める方法である。
凍結してでも、価値ある歴史建築物は残さねばならない、というファーストオピニオンはある。もちろん全ての古典がそうあるべきだという意見ではないし、そうであったとしても、国民負担の限界がある。一方、実利品たる建築の凍結状態は自然かといわれれば、そうだとは言いにくい。歴史的な魅力を「拝観」することでしか堪能できないというのは、愉しみ方としてはマニアックであり、ストイックであろう。刺身であれば、冷凍~解凍を経たものはその醍醐味の幾ばくかを欠くから、できれば、基本的に生の状態を経由して食したい。建物も同様に「凍結」されたものよりも、「動態」=動いている状態の、「生きの良さ」が魅力だというところがある。

行政に拾い上げられ、凍結保存を得られるか、もしくは稼ぎながら、それを原資に動態状態で残っていくか、いずれでもなければ、必然的に解体を迎える運命。統計学的には定義しにくいが、行政に価値化されることもなく、現代的な機能を得るきっかけもなく消滅していった古典建築の方が、後世に伝えられている古典建築より数の上で上回っていることは想像し易い。歴史的建造物の保存を巡る考現学の中で、「凍結」ではなく「動態」の状態で未来に伝えられようとしている博多百年蔵は、類い希なる実例としてあまりにも意味が大きい。かつてはここでお酒を造っていました、という考古学的な魅力ではなく、また、酒蔵を模したテーマパークでもない。現役の酒蔵が、現代に応変しながら、様々な用途を受け入れながら生きている、という魅力である。現代の市場、経済、あるいは、現代の感性に応変することによって始めて、生き延びるための原資が得られている、ということを抜きには何も語ることはできないシロモノである。

多百年蔵の再生〜2011年11月06日(日)

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古瓦、瓦土、杉皮と順番に剥がしていくと、みごとに朽ちた野地板が現れた。これらの撤去解体に手間を取られていたが、無事終わり、下地造り(野地板〜ルーフィング)まで終わる。この部分のみは、週末の豪雨にギリギリ間に合った。今年の秋雨いつになく頻度があり、そして強く感じる。それでも、屋根の不具合がこの度修繕できることは喜ばしい。焼失を免れた三番蔵と、壱番蔵〜参蔵の屋根の葺き替えが、今週始まる。

博多百年蔵の再生〜2011年11月07日(月)

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中庭からの風景にとって大事な部分となる屋根瓦の葺き替えがいよいよ始まる。なんとかせねばならないと、何年も懸案になっていたところが、この度、手を加えられる。瓦を剥がし瓦土を取り除いてから、ルーフィング(防水紙)で覆う、工程の中の僅かな間、古い野地板の隙間から、昼光が筋状にこもれる。工事中に、工事中ならではの美しいと思える光景がままあるが、このような光は相応に古い瓦葺きの屋根でしか見ることは出来ない。この上に野地板合板、桟瓦が載り、以後は確実に雨漏りもなくなるだろうし、イビツに波打っていた屋根面もキレイに面が揃えられる。